144日目 ガーナで人の死について考える(2021/06/22)
「多産多死」は悪いことなのか?
Population of Ghana 2020 - PopulationPyramid.net
医療で助けられる命は助けられるべきだし、人の命を助けられる人になりたくて看護師になった。
けれど、看護師で働いてる時、「もう死にたい」と言っているご老人を、意識の戻る可能性が限りなく低い人を、助けるための医療を提供する度に、その人の「安らかな死」を冒涜してる気分になった。
医療は正義だ、医療で助けられる人の命は助けられるべきだと思って看護師になったはずなのに、人の命を助けることが必ずしも正義ではないんだと学んだ。
(医療職が人の命を選択していいという話ではなく、本人や家族のご希望の話。)
学生の時に思い描いていた通り、病院で3年働いて辞め、アフリカに来た。
周りのガーナ人から昔に若くして亡くなった身内の話を聞き、街中でお葬式のポスター(お葬式の告知用にポスターを作って掲載される)を見る度に、「多産多死の人口グラフ通りだな」なんて思う。
なんだかガーナでの生活に慣れてくると、「少産少死」より「多産多死」のままの方が人間の営みとして正常じゃないのか、なんて考えるようになった。
ここ数百年でものすごく発達した医療は人間のエゴの塊で、そういう異物なく自然のままに生まれて死ぬまでを全うする方がいいんじゃないか、と。
街中でご高齢の人に出会うと、この生存競争で生き残っただけあって、めちゃくちゃ身体が頑丈で運もいい人たちなんだろうなーと思いながら見ている。
不自然なくらい整然として過ごしやすい日本で時たま感じた「生きていることへの欠如感」を、ガーナで過ごしていると感じる暇がない。
というのも、自分が1日を生きることに関して何かと手間がかかり、良くも悪くも面倒なイベント事が多いからかもしれない。
人の死も近い。
近いからこそ、明日死んでもいいように今日は今日を楽しんで生きようという気持ちになる。
そんな感じの太く短い人生の方が幸福度が高いんじゃないか、なんて考えてしまう。
さて、そんな風に考えると私のそもそものガーナに来た理由が根本から覆ることになる。
だって医療がいらないってことだから。
というより、今まで学んだことも、目標にしていたことも、頑張ってたことも、全て自分にとって意味のないものになってしまう。
なんて考えていた矢先、知り合いの大切な人が亡くなったり、身近な子が事故で病院に運ばれたり、というのが立て続けにあった。
亡くなった人には誰かしらその人の死を悲しむ人たちがいて、なんだか自分の大切な人が亡くなった時のとても悲しかった気持ちを思い出した。
日本の医療と違って、ここでは「命を助けるのか、助けないのか」の選択なんてする間も無く、人が死ぬ。
街中で見かけるお葬式のポスターも30~50代と働き盛りの若い人たちが多い。
「少産少死」より「多産多死」のままの方が人間の営みとして正常じゃないのか、なんて最近考えていた自分を殴りたくなった。
やっぱり、基本的な医療を受けられる権利は誰もが平等に持つべきだと思うし、予防医療の知識を得る機会も平等にあるべきだと思う。
と、いろいろぐるぐる考える機会を持てたのは良かったなと思いつつ、すごく小さな規模だけど自分の活動を頑張ろうーという気分になった。